陶片の山を登る器車。モノクロ

子どものころ、タミヤのアバンテを初めて見たときの衝撃を、今でも覚えている。

それまで僕にとってラジコンとは、実在する自動車を小さくしたものだった。フェラーリやポルシェ、レーシングカーやオフロードカーといった、すでにこの世界に存在している「本物」があり、それを縮小して手元に置く。模型とはそういうものだと思っていた。

けれど、アバンテは少し違って見えた。

あの車には、僕が知っている元の実車がなかった。大きく外側へ張り出したタイヤ、むき出しのサスペンション、低く前方へ伸びるノーズ、そしてキャノピーから後方へ流れていくボディ。オフロードバギー特有の荒々しさを持ちながら、その中央にはF1やプロトタイプカーのような、異様なほど滑らかな流線型があった。

実在する車を縮小した結果として、あの形になったのではない。ラジコンとして速く走ること、機械を成立させること、そして1/10ほどのサイズの中で最も格好よくあること。その条件から逆算して、あの姿がつくられている。

そのことが、子どもの僕にはとても新鮮だった。

「本物を小さくする」のではなく、「小さい世界の中で、本物をつくる」。

今考えると、アバンテから受けた衝撃は、そこにあったのだと思う。

実車で実現できるかどうかは、ある意味では関係がない。人が乗るための空間も、大きなエンジンを積む場所も必要ない。1/10というスケールだからこそ許される重心、プロポーション、機構、形がある。そしてその限られた世界の中で、性能と造形の両方を突き詰めていく。

それは模型というより、ひとつの独立した工業製品に見えた。

少し後に、似た感覚をミニ四駆のエンペラーにも感じた。

親と出かけた先の売店で『ダッシュ!四駆郎』を買ってもらい、そのページの中でエンペラーを見た。正確な順番や細部は子どもの記憶なので曖昧だけれど、そのボディを見たときに感じた「新しさ」はよく覚えている。

エンペラーもまた、現実の自動車を忠実に再現した姿ではなかった。

低く伸びたノーズ、滑らかにつながった面、後方へ向かって流れていくフォルム。それまで知っていたミニカー的な「自動車の形」とは違うのに、ひと目で速そうに見える。現実には存在しないにもかかわらず、「速さ」や「未来」という抽象的なものが、形として成立していた。

なぜ子どもの僕たちは、あの流線型を未来だと感じたのだろう。

当時、未来というものは、今よりももっと具体的な形を持っていたように思う。新幹線、F1、航空機、スポーツカー、コンピューター。新しいものは、より薄く、低く、滑らかで、尖っていた。空気を切り裂くような線を持ち、前方へ進む力がそのまま形になっていた。

アバンテやエンペラーは、そうした時代の感覚を、子どもの手の中まで縮小して届けてくれた。

未来は本来、まだ存在しない。だから触ることも所有することもできない。

しかし、プラスチックのボディなら手に取ることができた。

箱を開け、部品を切り離し、ネジを締め、シールを貼る。モーターや電池を入れて、自分の手で完成させる。そして床や道路の上を走らせる。

つまり僕たちは、未来を眺めていたのではなく、未来を組み立てていたのだと思う。

走行中の器車。流し撮り、モノクロ

日本工芸におけるラジコンとは。

ここに、僕はラジコンやミニ四駆と、日本の工芸との接点を感じている。

もちろん、ラジコンをそのまま伝統工芸と呼びたいわけではない。木工、漆、陶磁器、金工のように長い歴史と技法を持つ工芸と、工業製品としてのラジコンを同じものとして扱うことには無理がある。

けれど、工芸をもう少し広く、「素材と技術と人の手の関係から、ひとつの形をつくり出す行為」と考えるなら、ラジコンにも共通するものが見えてくる。

アバンテは、外側のボディだけで完結したデザインではない。

タイヤがあり、サスペンションがあり、シャーシがあり、モーターがあり、ダンパーがある。それらの機構は隠されず、むしろ露出し、ひとつひとつが全体の姿をつくっている。

そして買った人自身が、それを組み上げる。

完成品として与えられるのではなく、自分の手を介することで初めて物として成立する。

この「手を通過して完成する」というあり方は、工芸に近い。

さらに面白いのは、ラジコンが単に鑑賞するための物ではなく、使われることで完成することだと思う。

走る。曲がる。跳ねる。転ぶ。壊れる。調整する。また走らせる。

傷がつき、タイヤが減り、部品が交換される。そのたびに少しずつ個体差が生まれ、自分の物になっていく。

これは量産された工業製品でありながら、一台一台が使い手によって変化していくという、少し不思議な存在でもある。

そして、この感覚は陶器にもよく似ている。

器もまた、完成した瞬間が最終形ではない。毎日手に取られ、指が触れ、洗われ、使われる。その時間の中で表面が少しずつ摩耗して滑らかになったり、色合いが変化したりする。時には欠け、割れ、それを金継ぎすることで、以前とは違う姿になることもある。

そうした変化は、劣化というよりも、その人が使ってきた時間が物の表面に残っていくことなのだと思う。

同じ形、同じ釉薬でつくられた器でも、使い手が違えば数年後には違う表情になる。触れる場所、置かれる場所、使われる頻度によって、少しずつその人の手に馴染んでいく。

ラジコンも同じだ。

最初は同じ箱から出てきた同じ車でも、走らせる場所や運転の仕方、壊れ方や修理の方法によって、少しずつ別の一台になっていく。傷や補修、交換された部品のひとつひとつが、その持ち主との時間を記録している。

工業製品でありながら、使うほど個体になっていく。

そこに僕は、ラジコンと工芸のもうひとつの共通点を感じている。

そして今、僕は陶器でラジコンのボディをつくっている。

考えてみれば、ラジコンの素材として陶器ほど不合理なものもない。

ラジコンのボディには通常、軽さや柔軟性、耐衝撃性が求められる。一方で陶器は重く、硬く、そして割れる。

合理性だけで考えれば、わざわざ陶器を選ぶ理由はない。

けれど、今の僕には、その矛盾こそが重要に思える。

陶器には、プラスチックとはまったく違う時間が流れている。土を触り、形をつくり、乾かし、焼く。焼成の中では、人の手では完全に制御できない変化も起こる。

同じ型からつくったとしても、わずかな歪みや釉薬の表情によって、一つひとつ違うものになる。

そして実際に走らせれば、おそらくさらに変化していく。傷がつくかもしれない。角が欠けるかもしれない。あるいは割れてしまうかもしれない。

けれど、それを必ずしも失敗だとは思っていない。

欠けた場所を直し、金継ぎをし、その痕跡を残したまま再び走らせることができれば、それは新品のときとは別の美しさを持つはずだ。

量産を前提に発達してきたラジコンという工業製品に、そうした時間を蓄積する素材を持ち込むと、ラジコンという存在そのものが少し揺らぐ。

速く走るためのボディなのか。壊れないための外装なのか。機械を覆うものなのか。それとも、人が手で触れ、使い、時間を重ねることで変化していく器なのか。

アバンテが、実車の縮小という模型の枠組みを離れ、1/10の世界にとっての理想形をつくろうとしたように、僕もまた、陶器という素材を使うことで、ラジコンというものを一度別の角度から考えてみたい。

子どものころ、アバンテやエンペラーを見て感じた未来は、滑らかな流線型をしていた。

それは速さの形であり、技術の形であり、まだ見たことのない時代の形だった。そしてその未来は、僕たちの手の中に収まる大きさで存在していた。

今、自分が陶器のボディをつくっていることも、その延長線上にあるのかもしれない。

未来とは、必ずしも新しい素材や最新技術だけから生まれるものではない。土という古い素材と、ラジコンという現代の機械を組み合わせ、そこに使い手の時間が重なっていくことで、まだ見たことのない形が現れるかもしれない。

そう考えると、僕がつくろうとしているものは、陶器でできたラジコンというだけではない。子どものころ手の中にあった「未来」という感覚を、今の自分の手でもう一度確かめ、別のかたちでつくり直そうとしているのだと思う。

それは懐古ではなく、未来をもう一度、手の中につくる行為なのかもしれない。

手に持たれた角型の器車。モノクロ

陶器というマテリアル人と自然のあいだで、ものをつくる。

僕は東京藝術大学のデザイン科に通っていたこともあり、工芸は比較的身近な存在だった。

とはいえ、僕自身がやっていたのは映像だった。周囲にもグラフィックデザインや映像を中心に制作する人が多く、Macに向かってものをつくることが日常だった。

当時は、今のような生成AIもない。アンカーポイントを一つひとつ打ち、フレームを少しずつ動かしながら、アニメーションをつくっていく。デジタルではあるけれど、自分の操作と結果が直接つながっている感覚が強かった。自分が触った分だけ形が変わり、自分が動かした分だけ映像が動く。完成したものの隅々まで、自分の判断が届いているような感覚があった。

そんな環境の中で見ていた工芸、とりわけ陶芸には、少し異質なものを感じていた。

もちろん、陶器も人の手から始まる。

土を選び、練り、形をつくる。乾燥させ、削り、釉薬を施す。そこには膨大な技術と経験があり、陶芸家は土の性質を読みながら、つくりたい姿へと近づけていく。

しかし、その先がある。

最後に作品は、人の手を離れて窯に入る。

陶器はおよそ1200℃前後という高温で焼かれる。その中で土は収縮し、焼き締まり、釉薬は溶けてガラス質の表面へと変わっていく。窯の中では、温度、炎の流れ、酸素の量、土や釉薬の成分、その厚みなど、無数の条件が重なり合う。

陶芸家は、それらにただ翻弄されているわけではない。

どの土を使うか。どの釉薬を、どれくらいの厚みでかけるか。どの温度まで上げるのか。窯の中のどこに置くのか。これまでの経験から、火や土がどのように振る舞うかを想像し、その先に起こる変化まで含めて作品をつくっている。

そして、その予測の中には、最初から「すべてを決めきらない」という余白があるように思う。

釉薬が想像以上に流れることもある。わずかな温度差によって色が変わることもある。歪みや縮みが生まれることもある。狙った通りになることもあれば、その狙いを少し越えた表情が現れることもある。

それは単なる偶然ではない。

自然の振る舞いを予想し、その力が現れる余白を残し、窯から返ってきた答えを受け止める。その「わからなさ」まで含めて作品をつくることが、陶芸の面白さなのだと思う。

人が自然に形を任せるのではない。人が自然の性質を読み、その力を引き出し、ともに形をつくっていく。

僕はそこに、ものづくりの根源的な姿を感じていた。

考えてみれば、人間はもともと、何もないところからものを生み出してきたわけではない。

土、木、石、金属、水、火。

自然の中にすでに存在するものを見つけ、その性質を知り、働きかけることで、道具や器や住まいをつくってきた。

ものづくりとは、本来、人間が一方的に自然をコントロールする行為ではなく、自然が持っている力と、人間の意志とのあいだに生まれるものだったのではないかと思う。

木には木目があり、石には割れ方がある。金属には融点があり、土には収縮がある。

素材の性質を無視して形を押しつけるのではなく、その素材がどう振る舞うのかを読みながら、人が働きかける。

人がつくり、自然が応える。その応答を予想し、受け止め、また次のものづくりへとつなげていく。

僕にとって陶器の魅力は、まさにそこにある。

土という自然由来の素材に人が形を与え、最後は火と空気の中へ送り出す。人間の意志だけでも、自然の力だけでも完成しない。その両者のあいだを行き来しながら、一つのものが立ち上がっていく。

人と自然との共創。

それはとても原始的なものづくりでありながら、今の時代だからこそ、新鮮な価値を持つように感じる。

僕たちは今、以前よりもずっと正確にものをつくれるようになった。データを入力すれば、同じ形を何度でも再現できる。誤差を減らし、失敗をなくし、意図したものをそのまま現実へ近づけていく技術は、これからさらに進んでいくだろう。

だからこそ僕は、完全には思い通りにならないものに惹かれる。

それは、コントロールを諦めることではない。

自分ではないものの性質を理解し、その力を信じ、自分の意志と組み合わせること。その結果として、自分ひとりではつくれなかったものが現れる。

そこに、共につくることの面白さがあるのだと思う。

今回のラジコンの陶器のボディも、まさにそうした自然との共創に、真正面から向き合っている陶芸家に制作をお願いしている。

単に陶器で形をつくるのではなく、土がどう動き、釉薬がどう流れ、火がどんな表情を与えるのか。その変化そのものを作品の一部として受け入れる。

自分だけの一台、自分の愛車となるラジコンなら、完全に均質な素材ではなく、土の重さを持ち、火をくぐり、一台ごとに異なる表情をまとったものがいい。

人が形をつくり、自然が応える。その応答まで含めて、一つのものをつくる。

だから僕は、ラジコンの素材として陶器を選んだ。